せんりゅう、ごちそうさま
笹田かなえ
2024年12月1日
連衆101号 前号作品評
九州は福岡県大牟田市にお住いの、俳人である谷口慎也氏の編集・発行による「連衆」をご紹介します。季刊誌で2024年6月発行をもって100号となりました。私は「連衆」の同人として、年に4回「連衆」誌に川柳作品を投稿しています。参加して20年程になります。同人はもちろん俳人がほとんどですが、川柳の楢崎進弘氏、わ いちろう氏、神田カナン氏、情野千里氏が参加されています。
〜連衆100号より〜
花森こまと名乗る 連絡船が着く
楢崎進弘
砂丘総舐めの夕陽である
わ いちろう
立春のつくづくひかりレモンジャム
笹田かなえ
蜘蛛の巣の中の駅から駅である
神田カノン
売りはらう亡母が踊りに来る家を
情野千里
連衆誌には、俳句作品だけでなく作品評や前号からの選句、評論などさまざまな読み物があり、どれも読みごたえのあるページばかりです。私もささやかに「前号鑑賞」のページに書かせてもらっています。今回ご紹介するのは、101号に掲載された前号(100号)鑑賞です。谷口氏の許可の上、転載いたします。
巨き眼のようなもの曳く蟻の列
高橋修宏
「慈悲無用蟻の骸は蟻が曳く(倉富洋子)」という川柳作品を思い出した。「巨き眼のようなもの」が不気味だ。戦場の戦死体に群がる蟻を想像すると、そこにはこの世の残酷しかない。そしてそのような残酷な世界は確かに存在する、それに目を背けてはいけないと言われているようだ。
公式をあんこはみだす春日中
松井康子
多様性が叫ばれている昨今だが、生きたいように生きるにはまだまだ遠い道のり。ネコにポチって名前付けたって、アンケートの性別欄の「答えたくない」にチェックしてもいいじゃないか。「あんこはみ出す春日中」のいかにものんびり感を装いながらの問題提起は、じわりと刺さった。
風光る360°メロンパン
夏木 久
私の住んでいる八戸市にある種差海岸は、まさにこんな感じ。天然芝生の緑とその先に広がる太平洋の青の織り成す絶景スポットがあって、その景色そのままだ。そして「メロンパン」の比喩に感服。言葉によって構築された見事なパノラマを見させてもらった。
肝臓は疲れてゐる紙風船壊れた
瀬戸正洋
沈黙の臓器である肝臓の疲れを意識するのは、その持ち主もまた疲れているという事。壊れたというノスタルジックな「紙風船」に、軽くて心許ないながらも大切にしてきたものをイメージしたが、何かは分からない。ただ、しみじみと己の来し方を顧みるような書き方に、誠実に生きることの難しさを考えさせられた。
啓蟄の水湧き出してぬらりひょん
高木秋尾
「ぬらりひょん」の意表を突いた登場に、拍手喝さいをしてしまった。妖怪の総大将とも言われている、つかみどころのない「ぬらりひょん」。アニメでは鬼太郎の最大のライバルらしいが、ここでは怖いイメージはない。待ちわびた春の気配の描写が楽し気でほのぼのとしたのだが、さて…
ミサイルの銀の航跡落椿
千原艸炎
ウクライナに、ガザに飛び交っているミサイルの爆音や閃光がまざまざと浮かぶ。私達はそれを映像でしか知らないが、恐怖そのものである。青森県には陸、海、空の自衛隊のほかに、米軍基地や原子力施設も存在している。「有事の際」は、決して他人事ではない。
春うらら耳の欠けたる猫笑う
萩 瑞枝
さくら耳のネコだろうか。野良猫の繁殖を防ぐために、捕まえて避妊や去勢手術を施したネコの目印として、オスなら右耳、メスなら左耳の先をカットして、また元居た場所にもどす活動をしている地域がある。春の日のうららかな日差しの下のネコの幸せを祈るばかりだ。
冬旱チベット僧の足取りで
近藤喜陽
「冬旱」と言う季語をこの作品で初めて知った。「冬旱」を「チベット僧」の足取りとしたところに、絶体絶命的な厳しさを見た。黙々と行くチベット僧の足裏は罅割れて血が滲んでいるかもしれない。それでも、きっと春に向かっているであろう足取りは、痛々しくも尊い。
俳句の事はほとんど解らないままに勝手なことを書いていますが、谷口氏は「それでいいですよ」とおっしゃってくださいます。
101号には川柳の飯島章友さんが招待作家として20句の作品を寄せてくださっています。また、広瀬ちえみさんも「広瀬ちえみの川柳観」というタイトルで川柳について読み応えのある文章を書かれています。そして、森さかえさんが「暮田真名の川柳を読む」と題して、今の川柳に対して忌憚のない考察をしてくださっています。
こんなに充実した「連衆」ですが、谷口氏のご都合によりしばらく残念ながら休刊になります。
「連衆」は、好きな果物のひとつの黒葡萄のように、じわりと深みのある酸味と甘みが脳にほどよい刺激を与えてくれるのです。