せんりゅう、ごちそうさま
笹田かなえ
2025年11月1日
川柳の仲間「旬」第260号

長野県伊那市から全国に向けて発信されていた「川柳の仲間『旬』」が終刊となりました。代表の丸山健三さんの突然のご逝去によるものです。
丸山健三さんにはお会いしたことはありませんが、長く農業に携われてこられたとのことで、川柳作品にも農業をテーマにしたものが多かったです。
「旬」の会員は6名でした。でも、それぞれに確固とした川柳のスタイルを持っていて、その冊子はとても読み応えがありました。
川柳の仲間「旬」について、会員の樹萄らきさんに詳しく書いていただきました。
「川柳の仲間 旬」終わる
樹萄らき
予定では、地元会員四人と話し合いながら、旬の終わりを決めていこうという雰囲気だった。そんな感じで三年くらいは続いた気がする。やはり、いざ、終わりのことを口にするのは寂しいというのが、言葉にしないが共通の気持ちだった気がする。今年いっぱいかな?来年いっぱいかな?という感じで、毎月の 例会は行われてきた。
六月二〇日、いつものように編集して必要部数印刷した旬を代表に届けると編集係のやることは終わる。発送他は代表の担当。とにかくすぐやる、をモットーとしている代表からいつものように「旬№二六〇号」が届き、ほっとする。
終わりのきっかけは突然やって来た。
電話が鳴った。ちゃんと「丸山健三さんです」と電話が言ったので、孝一さんが安心して受話器を取る。別に後で聞けばいいと思っていたので、寝室で横になっていた。
「おい、健三さんが亡くなったと奥さんから今電話がきた」
一瞬理解が遅れる。
「え?」
数日後、旬の主力会員二人が、代表が管理していた旬の物を奥様から渡され、時間が取れたら旬のことを話そうということになる。とは言っても、終わりだね、という選択肢しかないことはわかった。五人ではもう無理なのだ。というより、代表が旬を愛し頑張っている姿があったからこそ、会員たちは頑張って続けてこられたのだ。
さて、「川柳の仲間 旬」には前身があった。飲むとよくその話が肴になる。その頃は、先生がいて、川柳三昧だったらしい。そのうちに誰かが川柳大会があると知り、同時あたりに時実新子さんを知り、先生に内緒で川柳大会へ行った。それが先生の逆鱗に触れ何人かがクビになったらしい。で、残念がるどころか渡りに船と大はしゃぎして、誘ってみたい人に声を掛けて男女七人が揃い「川柳の仲間 旬」が一九九二年三月に発足。柳誌も作り、一ページ目にはプロの漫画家、橋爪まんぷさんの川柳まんがをお願いしたと聞く。
全員ではないが、ほぼ毎晩ほぼ徹夜状態で酒を呑みながら川柳談義に花を咲かせていたらしい。
その頃、時実新子さんが全国の川柳結社を廻っていて 、旬の所へもいらして、その話になると皆の熱量がどっと上がる。
そして一人、また一人と県内外問わず旬に入らないかと誘われた人達で人数が増えたらしい。
旬の特徴はまず先生を在籍させない。なので毎年代表は選挙で決める。一人一人自分の川柳を追求していくことをモットーにということだ。ちなみに一人印刷業の人がいたので編集長は必然となる。その人が代表になった時は代表と編集長を兼ねた。とにかく新進気鋭というか上を目指す姿勢の熱気ある川柳の中、私は偶然が重なり旬に入り、川柳のせの字も知らないままとりあえず五七五で何か書け、という入り方をした。
数ヶ月経って、川柳をやったことがない人達が五~六人になり、某雑誌のタイトルをパクって「ひよこクラブ」ができ、例会とは別の日にも月一で川柳の基本を学ぶ日もできた。先生は旬の編集長。
旬の発行は毎月。原稿が出揃うと入力、編集、発行部数分の印刷までは編集長の担当。帳合いは出てこられる会員達でやる 。結果、旬を手にしたとき作成に関わっているぶん嬉しさはひとしおだった。
例会は主に席題。一人一題出し、二句以上。指名された人が披講し、いいなと思ったら手を上げるという形で、特選とかは無し。披講者の隣の人が挙がっている手の数を短冊に書く。公民館で行われる例会の二時間はあっという間に過ぎた。
二〇〇四年に川柳フォーラム、二〇〇五年に長野県川柳大会を旬で開催。大型台風に振り回されたような年続きの大会の準備、開催、後夜祭?は、ほとんど記憶を失うほどの大変さで、こんな大変なことを毎月全国どこかの柳社で開催されているんだと思うと今でも本当に頭が下がる。
話は飛ぶが、旬の新年号には、編集長がこの人と見込んだ方の十句が冒頭に載る。そこで初めてお名前だけでも、この方は凄い作家なのだと知る。更に毎年県外の川柳大会へ二ヶ所くらいは参加し、運が良いとお名前の方に出会えたりできる絶好のチャンスとなる。
で、ふと気づくと退会者と入会者が何人も入れ替わっていることに気づく。これも継続している証拠なのだろう。そのうちに毎月発行が隔月になり、なぜか数ヶ月まとめての合併号になっていた。理由は会員の誰もわからず、で、気づくと編集長も退会。
例会に全員集まっても十人満たなくなっている。それでも選挙で代表を決めることは変えなかった。まあ、この年以降毎年同じ人になっているのだが。隔月で冊子を作り、例会の内容も席題から、自由句を本人が披講し、各自好きな句、う~ん?という句など二~三句取り上げ感想を言う形の読み合わせに変わる。どう読んだらいいのかわからない人にとって、これは読み方の勉強にもなり好評。気づけばおだやかな人が残る。
それでも時が経つにつれ、旬の会員は少しずつ減っていった。
で、二〇二三年には地元四人、県内一人、県外一人となっていたが、一回一回の例会を大事にしていく大切な集まり(地元人だけ)となっていた。
ある日、今日は俺ちょっと風邪ひいちゃって。一時間で例会終わってもいいかな?と代表。いくら元気印の代表でも、風邪を引く年齢になっていることに気づく。誰かが不調なら例会は短く、が普通になる。それでも例会は楽しい。
№一五一号から始まった旬は、ずっと選挙で同じ代表。そのほうがみんな穏やかな良い雰囲気で、それは代表の大きな優しさのおかげなのだ。ここ二~三年は会計だけが変わった。
「それでもそろそろ閉じた方がいい時期に来ているんじゃないか?」
「そうだな。今年か、あ、いや、来年あたりを考えてみるか」
「そうだな。潔い終わり方がいいかもな」
代表と会員の一人がそんな話をしていたらしい。
『えー、そうなんだ、来年いっぱいで旬が終わる話をするんだ、寂しいな』
と思いながら№二六〇号を編集する。
発行部数分印刷した旬を代表に渡し、じゃ、また来月例会で、と家を後にした。
それが代表(八十五歳)との最後の会話になった。
まだ続きがあると思っていた矢先、プツンと糸は切れ、二〇二五年八月、三十三年五ヶ月間続いた「川柳の仲間 旬」は終了した。
確かに何でも始まりがあれば、予定通りか予測不能かに関わらず終わりは必ず来るのだと実感した。
長い間旬を手に取ってくださった方々へ、本当にありがとうございました。
心から感謝いたします。
川柳の仲間 旬 一同
ものすごい熱量を持って書かれた文章に圧倒されました。
らきさん、ありがとうございました。
では、「川柳の仲間の『旬』」の皆様の作品をご紹介いたします。
「暑中見舞い句」
自然破壊ああ落人をきょうも生み
小池孝一
酷暑日の上もぜってーくるぞ「うがぁ」
樹萄らき
深呼吸心も体もソーダ色
桑沢ひろみ
逃げ水を追うかサハラをさまようか
大川博幸
葡萄の下冷えた浅漬け好きな本
竹内美千代
里いもの葉露は月をころがした
丸山健三
会員さんの作品です。
あっぶねぇ心を開くとこだった
樹萄らき
ちっぽけを啄んでみる旨いじゃん
小池孝一
もうひとつ用意していた最終話
桑沢ひろみ
割烹着の袖は雨風寄せ付けず
竹内美千代
水中にいたい葉の陰にもいたい
大川博幸
稲たち煽る涼風独り占め
丸山健三
しっかりとした立ち位置でイキイキと書かれているそれぞれの作品に、甘いだけじゃなく酸味と歯ごたえのある、果物のネクタリンの味わいを感じました。
皆様にはこれからも、川柳が傍にいることを願ってやみません。
せんりゅう、ごちそうさまでした。



