会員作品を読む
笹田かなえ
2025年3月
2025年3月1日
なさけなさとなさけなさない後日談
斉尾くにこ
「なさけなさ」は「情けなさ」と「なさけなさない」は「情けなさない」と読んだ。「情けなさ」は分かる。でも「情けなさない」は「情けなくない」とはちょっとニュアンスが違うみたいだ。「情けなさない」の「なさない」は文法的に「なす」 の打ち消しとなるから、「情けをなさない」ということで、「情けではない」に近い言い方になろうか。「なさけなさない」という言い方があるかどうかわからないが、言葉の自由度において興味深い一句だった。「後日談」も聞いてみたい。
アポリアに取り組んでいた少年期
鈴木雀
「アポリア」、またまた知らない言葉なので調べてみた。意味としては「問題を解こうとする過程で,出合う難関」だそうだ。そしてもうひとつ、《TVアニメ「チ。 ―地球の運動について―」エンディングテーマ》というのがあった。アニメの「チ。 ―地球の運動について―」、気 になっていたがまだ観たことはない。このエンディングテーマのヨルシカの歌は、知らないことを知ろうとする心の揺れがズキズキと伝わってくる歌詞と歌い方だ。アポリアは少年期だけのものだろうか。大人はどうなんだろう。アニメが観たくなった。
いただきますとただいま 六対四でただいま
須藤しんのすけ
どちらも挨拶の言葉として日常よく使われている。「いただきます」が六文字「ただいま」が四文字。字数で言ったら「いただきます」が勝っているんだけど、そうじゃないのが川柳。多数決だけではないのが人生の面白いところと似ている。ん?「 六対四でただいま」の負けという事もアリか。どちらとも取れるねじれ方が面白かった。
廃るは 親子 風雨 砂 波 時間
旅男
松本清張の「砂の器」のオマージュだろうか。映画の砂の器に出て来る場面が「親子」「風雨」「砂」「波」「時間」という言葉によって再現されている。あの時代と現代とでは状況は大きく違っている。親子の関係もまた然り。昭和と違う令和の親子関係に心もとなさを覚えながらも、どうにもできない自分がいる。しかし、こんな風にして時代は移り変わっていくのだろう。
踏んづけて月は登ってきたのです
西山奈津実
月はなんとなく手弱女的なイメージがあるが、掲句に煌々と夜空に浮かぶ満月を思い浮かべ「あー、確かに」と納得した。天辺に行くことはそういうことなんだと、自然界の掟みたいなものを考えてしまった。「踏んづけて」のおかしみとスケールの大きさが斬新。月と言えば「われは雁 月の真上を渡るなり 八木千代」。上には上があるものだ。
ひんやりと蕪を抱いてたましいの比喩
温水ふみ
「たましいの比喩」という言葉の持つ世界観に惹かれた。人はどんな時に「たましい」の存在を意識するのだろう。「ひんやりと」の導入に孤独感がある。「蕪」の形はある意味純粋無垢そのもの。「たましい」は「ここ」にあるのだと感じた瞬間の愛おしさが滲み出ている。≪独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である「20歳の原点」高野悦子》を思い出し、とくんと胸が鳴った。
私小説だから椿は美しい
飛和
まさに。直球ど真ん中のストライク!古今東西、椿は絵画や音楽、小説や戯曲、短詩型など、さまざまなジャンルにおいて、モチーフとして取り上げられている。「いちめんの椿の中に椿落つ 時実新子」。椿の存在感を「私小説」とした作者の慧眼に大きく頷いた。花の首からもげて落ちる椿。私小説における抒情性そのものを椿は体現していると思う。
すごろくの目を待つ春の総武線
藤田めぐみ
遠い遠い昔、三月の房総半島に行ったことがある。菜の花が真っ盛りでその黄色に圧倒された。房総半島にはひと足早く春が来る。「どうせこの世は一天地六の賽の目しだい」。人生いい日もあればそうでない日もある。そうでない日は、総武線に乗ってひと足早い春に会いに行こう。「春の総武線」がいい。そこには伸びやかでゆったりとした時間が流れている。
誤送したメール 崩れてゆく積木
間瀬田紋章
さあ、大変。誤送メール、どちらへ?どんな内容で?と気にかかるところ。ガラガラと積み木の崩れる音がするというのだから、きっと長年のお付き合いのある大事な関係者ではないかと察するが…メールやLINEは確かに手軽で便利なツールだが、その手軽さゆえにうっかりミスもある。そのミスをした瞬間の気持ちの切り取り方がリアルだった。
ざらついた朝と卵を剥いている
峯島妙
どういう事情で「ざらついた朝」になってしまったのか。普通、「朝」と「卵」だったら平和な情景なのだが、卵の殻のざらつきに不穏さを醸し出したところが意表を衝いている。卵の殻を剥いてつるりとした肌に触れていたら気持ちも落ち着きそう。朝起きたらまずはお湯を沸かす。そして空腹を満たすことが一日の始まりには大事。
反省とKitKatと午前二時
伊藤良彦
二月、三月のKitKatと言えば受験生の心強い応援団でもある。合格祈願のお守 りみたいに送ることもある人気のチョコレート。「KitKat」=「きっと勝つ」。でもこれ、受験生のためだけの応援でなくてもいいのだ。例えば仕事に失敗して打ちひがれている大人にだって、そっと寄り添ってくれそう。そんな気付きを掲句からもらった。
忘れ傘群れるノーサイドの笛に
菊池京
「ノーサイド」いいなあ。ラグビーで「試合が終わったら敵も味方もなくお互いの健闘をたたえ合う」という清々しい意味を持つ言葉に、泥まみれの笑顔が浮かぶ。これは、日常生活においてもそうであって欲しいことだ。それまで繰り広げられていた死闘の終 わりを告げるノーサイドの笛が鋭く響き渡るのを、歓喜で聞く人、悔しく聞く人の悲喜こもごもはまさに「忘れ傘群れる」。この次のラグビーワールドカップは2027年とか。ニュージーランドのオールブラックスのハカ、また観られるかなあ。
ほとぼりを集めぬるめに行く轍
河野潤々
「大人」だなあ。人生何周目ってくらいに達観というか、楽しんでいるというか。「ほとぼり」、漢字で書くと「余熱」あるいは「熱り」。熱かった時代を過ぎて、さまざまな余熱があるうちにゆったりマイペースで行く余生、最高のスローライフでもある。ただ「轍」。句の印象から、ぬかるみに出来た轍に見える。これはなかなか手ごわそう。まあ、それも覚悟しての「轍」なのだろう。