会員作品を読む
笹田かなえ
2025年1月
2025年1月1日
鎖骨から上は本音を語らない
菊池 京
心惹かれる人は、後から思うとみんな鎖骨が綺麗だった。その時は特に鎖骨を意識していなかった。ネクタイを取り、白シャツの第一ボタンを外した時にちょっとだけ見えたゴツゴツした鎖骨に無性に触れたいと思ったのが始まり。鎖骨に罪はない。鎖骨から上に問題があっただけ。でも、この歯がゆさもどかしさはやっぱり鎖骨のせいかもしれない。
まなうらに降る雪 となり合う川の
河野潤々
「となり合う川の」とあるから二本の川が寄り添うように流れているのだろう。交わることのない二本の川はそれでも同じ景色の同じ時間を共有している。「まなうらに降る雪」の美しさ。一字空けにして続く「となり合う川の」の静けさ。倒置法による余韻が残る仕立てだ。そこには愛しくもはかない時間が流れている。私たちはただその流れに心を委ねて豊饒なひと時に浸るだけでいい。
お隣はすぐ燃え上がる金閣寺
斉尾くにこ
「お隣」を家ではなく「お隣にいる人」と読んだ。家族ではないな。会合とかで隣り合わせた人だろう。日頃からすぐカッとなる人なのかなと想像した。それでなくてもまばゆい金閣寺だ。それが燃え上がる=怒る。想像を絶する怖さ(笑)「すぐ燃え上がる金閣寺」のユーモラスでオーバーともいえる措辞が、定型の力でストレートに決まった。これぞ川柳の一句。
win-win-winだれも泣かないことにした
鈴木 雀
「三方良し」と言う言葉の今風な言い回しとも取れるが「だれも泣かないことにした」が切ない。「win-win-win」の英語表記が「泣いた、泣いた、泣いた」に見えるのだ。散々泣いて苦しんで、それぞれが納得のかたちでの「win-win-win」という着地を得たことは、それはそれで良かったと思う。英語を使っての川柳はこれから多くなりそうだが、掲句のようなのがいいなと思った。
ねぇ星になったの土にかえったの
須藤しんのすけ
金子みすゞの「曼珠沙華(ひがんばな)」という詩の一節が浮かんだ。「秋のまつりはとなり村、日傘のつづく裏みちに、地面(じべた)のしたに棲むひとが、線香(せんこ)花火をたきました。あかいあかい曼珠沙華(ひがんばな)」。青森のおかじょうき川柳社の奈良一艘さんが10月にお亡くなりになった。しかし、まだその死が信じられないでいる。しんのすけさんもそうだよね…。
残り日めくる「大丈夫?」って朝
旅男
今はめっきり少なった日めくりのカレンダー。子供の頃は兄弟の誰がめくるかで、早起きの競争をしたのを思い出した。12月になると、あんなに厚かった日めくりも残りも少なくペラペラになったのを見て「大丈夫?」って思ってしまうのは、きっと自分の残り時間と重ねてしまうからだろう。何気ない日常にふっと過る不吉な予感。だからこそ、今日一日を大事に過ごそうという気持ちが込められているのを感じた。
かわかすたたむ一年分のしゃらくさい
西山奈津実
年末が近づくといつも断捨離を思うが口先ばかりで実行できないでいる。しかし、掲句は「しゃらくさい」といとも簡単に成し遂げているから、尊敬してしまう。「かわかすたたむ」の繰り返しによって 進むこの世。面倒この上ない物事にたいして「しゃらくさい」は実に小気味いい。この姉御肌の現在地に激しく羨望した。
土踏まずに海を教える旅をする
温水ふみ
別役実の童話「淋しいおさかな」に出て来る女の子の旅を思った。淋しさを知らない女の子が、淋しいおさかなに会うために長い長い旅に出て、たどり着いた海で知った淋しさ。「土踏まず」がいい。「海を教える旅」がいい。選びだされた言葉のひとつひとつが紡ぐ物語に、読者もまた同じような旅をするだろう。
触れあって針葉樹林だと気づく
飛和
夏の針葉樹林の猛々しい緑、冬の針葉樹林のすっくりと立つ緑。見ている分には美しい針葉樹林ではあるが、針葉樹林の針葉樹は葉が針のように鋭いので触れるとチクチク痛い。人間関係において、まして恋愛関係なら、このような状態はかなり辛い。ヤマアラシのジレンマのように適当な距離をおくか、あるいは傷ついても触れあうか。悩み、迷うことも恋愛の醍醐味のひとつではあるが…
助手席で問いただされている ふふん
藤田めぐみ
助手席は特別な人の指定席なはず。なのに「ふふん」。初めて助手席に座ったときのワクワク感はどこへ行ってしまったのだろう。まあ、遠慮のない間柄となっての会話なのだろうから心配することもあるまい。何を問いただされているのか気になるけれど「ふふん」といなす気の強さは頼もしい。それにしても「ふふん」を川柳にするの、勇気の要る事ではなかったかな。
きのとみの脱皮の後の不老不死
間瀬田紋章
「きのとみ」ってなんだろうと調べたら、2025年の干支を言うのだそうだ。「乙巳(きのとみ)」と書く。その乙巳年は、「努力を重ね、物事を安定させていく」年とされ、成長と結実の時期となる可能性が高いとか。楽しみな年になりそうだ。掲句の「脱皮の後の不老不死」とは、ますます精進するという心意気なのだろう。「乙巳(きのとみ)」の今年こそ、世界中のみんなにとっていい年であるようにと、祈らずにはいられない。
ネルシャツの煙草と冬の陽の匂い
峯島 妙
松田聖子の「赤いスイートピー」の冬バージョンみたい。ネルシャツに沁みついた煙草の匂いとふりそそぐ冬の陽の匂いが「赤いスイートピー」の舞台と違ってちょっと重く感じたのは、年を重ねた雰囲気があったせいだろう。「I will follow you」の言葉と共に、青春・朱夏・白秋・と時を経て、玄冬の季節にさしかかった二人の今が幸せそうで、何より。
蛍光灯みたいな正義だとしても
伊藤良彦
「蛍光灯みたいな人」って言葉があった。昔の蛍光灯はスイッチを入れても点灯するまでに時間がかかったので、反応の遅い人を揶揄したものらしい。「正義」の定義は人それぞれかもしれないが、掲句は自分の正義をきちんと芯に据えていることを伝えている。「だとしても」が一見控え目だが、だからこそのゆるぎなさを見る。