会員作品を読む
笹田かなえ
2025年10月
2025年10月1日
道行の相手は薬莢の香り
藤田めぐみ
「道行」!古風でありながらアブノーマルで危険な、だけど魅力的な言葉ではある。掲句ではそのお相手が薬莢の香りがするとは、ますます危険。でも、だからこそ燃える恋なのだ。今ではほとんど川柳に使われなくなった「道行」だが、その行く末は心中と言うお約束も匂わせて、芝居がかった仕立て方が面白かった。「夢の夢こそ哀れなれ …」、「曾根崎心中」の一節がふと浮かんで…
川底の砂地に絡まれる晩夏
峯島妙
「晩夏」は八月半ばから下旬の頃を表していて、なかなか趣がある言葉だ。青春、朱夏、白秋、玄冬という、年代を表す言葉がある。青春は10代から30歳、朱夏は30歳から50歳、白秋は50代後半から60代後半、玄冬は60代後半以降と言われている。そう考えると、掲句の「晩夏」は単に季節の夏の終わりだけなく、その年代の終わりの頃で、何かがあって心残りのあるようにも読める。「晩夏」の言葉はどこか薄暗さがつきまとう。でもそこに惹かれるのが川柳人でもある。
灼熱と猛暑は何が違うのか
伊藤良彦
灼熱=物が焼けて高い熱を持つこと。焦げるほどに暑いこと。猛暑=平常の気温と比べて著しく暑いときのこと。猛暑日とは気温が35℃以上の日。こう書いているだけでこの夏の暑さが蘇ってくる。掲句、その暑さに参って書かれたと推察する。まるで皮膚の焦げるような灼熱の暑さには、人間性を破壊されるような気がしたものだ。「何が違うのか」には、どこへぶつけたらいいかわからない憤りが感じられた。それでも、やっと秋。のど元過ぎ れば熱さを忘れるではないけれど、たっぷり秋の味覚を楽しむことだ。。
ジャガイモがないカレーですひとりです
菊池京
カレーと言う料理は、ちまちま作るよりどかんと大鍋に大量に作った方が美味しい。キャンプや合宿のカレーが美味しいのは、大量に作って、みんなでワイワイ食べるからこその美味しさがある。だから、下五の「ひとりです」にキュッとした。カレーのジャガイモは入れない方がすっきりしていいと言う人もいるけれど、私はカレーのジャガイモが好きだ。もったりした味わいにほっとする。掲 句、少量のカレーのことを言っているだけでなく、ジャガイモみたいな人の不在も感じて、うんうんと頷いた。
粼を演出したい多感症
河野潤々
「粼」、難しい漢字だ。ネットで調べたら「せせらぎ」とあった。そして「演出」が曲者。せせらぎという爽やかな言葉の後に「多感症」という言葉との取り合わせがなんともギクシャクしている。最初、「多感症」をうっかり「多汗症」と読み間違えてしまい、これも「演出」のひとつなのかもと思った。「多感症」とは周囲の刺激に対して非常に敏感な気質を持つ人々の ことを言う。多分、川柳を書く人にもそういう人はいるだろう。でもそれは川柳を書くうえで、とても恵まれた個性ではないだろうか。川柳でその個性を存分に発揮して欲しいと思う。
ロングパス受けて手の中なまざかな
斉尾くにこ
一読、姑の面倒を押し付けられた嫁の立場が真っ先に浮かんだ。「ロングパス」は味方からのパスにせよ、それを受けた手が「なまざかな」というひらがな表記に生臭さがふんぷんとしていて、いい状態ではないと思った。ぬるっと生臭いものに、親族あるいは姻族のどうしても断ち切 ることのできないしがらみのようなものを感じてしまった。無理しないでと、いい嫁で無かった私はそぉっと言いたいのだが…
ブルーベリー小鍋で愛を煮立たせる
鈴木雀
「ブルーベリー」がいい。「小鍋」がいい。ブルーベリーの青紫色が白いホーローの小鍋でふつふつと煮立つ様子が見えるようだ。「生姜煮る 女の深部ちりちり煮る 渡部可奈子」の川柳が浮かんだ。昭和の女は生姜を煮て、令和の女はブルーベリーを煮る。材料の違いこそあれ、どちらも女であることの言いようのない不条理性を表している。 掲句には更にブルーベリーの甘酸っぱい匂いが立ちこめて、それもまた愛するカタチ――だね。。
小春日和一旦休憩入りまーす
須藤しんのすけ
「小春日和」って確か、初冬の穏やかで暖かい日和のことだから、ちょっと早いかも。でも気持ち的には十分わかる。北国の冬は早い。十一月には初雪が降ったりする。だから本格的な冬の前のほっかりした暖かい日は、宝物のようにありがたいものだ。「一旦休憩入りまーす」の「まーす」がいかにも喜びいっぱいで、「どーぞ、どーぞ」と言いたくなってくる。楽しい川 柳をありがとう。
チュウチョウロ熊もつけて空籤無し
旅男
「チュウチョウロ」って何だ?ねずみの鳴き声みたいで、熊も出て来るしで、昨今の熊の被害の大きいことかなと思ったのだが、「チュウチョウロ」は「中」「朝」「露」とも変換できると思った。九月のある日に、習近平氏、金正恩氏、プーチン氏のお三方が並んだ映像を見た。中国、北朝鮮、ロシアの三国は日本に近接していて、挑発的な行動をしばしば取っている。「空籤無し」に、独裁者達の無謀な行動になす術のない私たちの不安な日々を描いてい るように思った。
キッパリは複数系には似合わない
西山奈津実
友だちや仲間と大勢でワイワイするのは本当に楽しい。でも、人数が多くなれば意見の対立があったりして、ちょっと揉めたりするのはよくある事。そんな時は誰かの意見に沿うようにして、何となくそれなりに決着がつく場合が多い。でも、中にはそれに対して強く反発する人もいたりする。八戸の詩人、村次郎さんに、「マスゲーム マスゲーム 間違った少女 間違った少女」という詩がある。「間違った少女」は、間違ってもいいんだと思っている。
やわらかいぶどうを運ぶための靴
温水ふみ
この場合の「やわらかい」はぶどうと靴の両方にかかっていると読んだ。甘く熟したぶどうを籠に入れて、そろそろと運ぶ様子をイメージした。籠いっぱいのぶどうを落とさないように、でも早く運びたい。そんな心持ちに寄り添うように、やわらかく足運びのよい靴に焦点を当てているところに惹かれた。それはまるで、恋人に逢いに行く時の初々しいときめきにも似ているようにも思えた。
白銀の葡萄の房に手を伸ばす
飛和
「白銀の葡萄」って何だろう?たとえば朝露をまとった葡萄棚のたわわな葡萄なのだろうか。それとも銀細工や銀食器の葡萄だろうか。そして、銀細工と言えばジャン・バルジャンが浮かぶ。世話になった教会の銀の燭台を盗んだジャン・バルジャンの胸の裡の、背徳感や罪悪感のようなものを掲句に重ねるとドキドキする。「白銀の葡萄」は、さまざまに想像力を掻き立ててくれて魅力的だった。



