会員作品を読む
笹田かなえ
2026年4月
2026年4月1日
入り口と出口と耳鳴りが続く
須藤しんのすけ
これは辛い。耳鳴りの不快感は拷問に近いものがある。耳鳴りは加齢も原因のひとつと言われているが、「老い」がテーマか言われると違う感じがする。どんな場所の入口と出口かも気になる。並列助詞の「と」を二つ用いているところに、不快感といら立ちが伺える。「続く」には不気味さもある。「入口」「出口」「耳鳴り」のすべてが比喩とも考えられるが、いまひとつイメージできなかった。ただ、体の不調によって引き起こされるさまざまな負の感情を思いながら掲句を読んだ。
春はばけもの狂い咲くお殿様
旅男
そうだよねぇ。今年もまた、降っては積もる雪に雪かきが追い付かない、地獄のような日々だった。それなのに、春がくればあんなに苦労した雪が溶けてあたかたもなくなるのだから、まさに春はばけもの。そして春と言えば桜。「狂い咲くお殿様」に坂口安吾の「桜の森の満開の下」を連想した。梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と言っている。「等分に切って差し出す桜闇 樋口由紀子」と言う川柳もある。確かに春は何かにつけて心のざわつく季節だ。
龍を飼うのであの空も包んでね
西山奈津実
わわわ、これはまたスケールの大きな句。まず「龍を飼う」と言う発想はそうそうあるものではない。そして「あの空も包んでね」のあっけらかんとした物言いにはただただ降参。確かに龍には広々とした空が必要だ。でも空を包むなんて思いもよらない。龍を買えるのはペットショップかそれとも作者御用達の高級セレクトショップか。心が塞いでいるときに元気をもらえる川柳として覚えておきたい。
文脈に植物園は欠かせない
温水ふみ
「欠かせない」という断定に惹かれた。「文脈」とは文や言葉が置かれている前後関係、状況、背景から生まれる意味のつながりを表す言葉だ。植物には葉脈があり、そこから文脈の「脈」に通じるものもある。そして、そのような表記によるものだけではなく、植物園の持つ静けさや湿り気、植物の繁茂する息苦しさ、枝葉の戦ぎ、温室ならば熱気、屋外なら解放感等々、植物園からイメージされるあらゆるものが「文脈」に欠かせないという掲句に想像が広がり説得力があった。
口裏を合わせて春のパンケーキ
飛和
「春のパンケーキ」がパッと明るい。某CMの「春の〇〇まつり~」みたいなメロディーも聞こえてきそう。でも、しっかり「口裏を合わせて」という仕掛けがあるから油断できない。パンケーキって大体が何枚か重なっていて甘いシロップがかかっている。いかにも平和な食べ物だけどそこに「口裏を合わせて」と言う企みを見出してしまうのは、川柳人の性としか言いようがない(褒めてます)。そういった意味も含めて、掲句のパンケーキ、なかなか手が込んでいるな(笑)
デブリ山積み誰がイスカンダルへ行く
藤田めぐみ
アメリカがイスラエルと共に2月28日、イランに対して「大規模な戦闘作戦」を実施した。これにより、ホルムズ海峡は封鎖状態となり、世界中にエネルギー危機が起こっている。正直、またかの気持ちだ。石油依存のエネルギーではなく原子力の活用もあるが、デメリットも大きい。東日本大震災の際に、東京電力福島第一原子力発電所で発生した大量のデブリは、高い放射性物質を含んでいる。宇宙戦艦ヤマトに登場するイスカンダルには、汚染された地球を浄化できる「放射能除去装置」が存在するという。掲句は切羽詰まった今の状況を激しく憂いている。「さらば~地球よ~ 旅立つ船は~」の歌詞がジワジワよみがえる。
紙で切る薄い後悔滲ませる
峯島妙
紙で切ったのは手だと思う。切った時に気が付いたか少し経ってから気づいたか。どちらにしてもしばらくは続く痛みだ。そして紙で切った傷は治りにくい。薄く細く長く、いつまでもヒリヒリするのだ。そんな傷に「薄い後悔滲ませる」と、心の裡にある屈託を重ねてみているところが胸に沁みた。誰でも経験のある日常の一瞬を川柳にして、人間の可笑しみ悲しみを描いていると思った。
缶詰の中で過ごした五十年
伊藤良彦
何の缶詰?缶詰の賞味期限は2,3年くらいだが50年も未開封なんて、中身はどうなっているんだと想像するのも怖いような…ワインは保存状態がよければ50年経っても飲めるようだけど。「缶詰」を比喩と考えると、たとえばひきこもり問題や、一つの考え方に固執してきた生き方、そして囚人などが浮かぶ。でも、掲句は「過ごした」とあるからきっと缶詰から出られたのだろう。淡々と語られているが50年は長い。そして「缶詰」と「50年」のつながりが今ひとつつかめないままだったが、問題提起のある句だった。
さよならはカップの底のコーン粒
菊池京
コーン粒だから、コーンポタージュスープを飲んだ後のカップを思い浮かべた。しかしそれをこのような川柳にしたのは見たことがない。コーンポタージュスープを飲み干したあとの、温もりも色みも失せつつあるカップを手でなぞりながら、最後の小さなコーン粒を見つけて「さよなら」を重ね見たところに静かな決意が伺える。さよならのかたちは人それぞれだ。このしみじみとした奥深い「さよなら」は確かにひとつの真実を描いている。
ブランコの背中明日は明日来ない
河野潤々
映画の「生きる」を思い出した。市役所の職員として、単調な日々を送っていた主人公が胃癌に罹り、余命幾ばくもないことを知る。そしてあるきっかけで公園を作るために奔走し、公園は完成した。主人公はその公園のブランコに乗りゴンドラの唄を口ずさみながら、亡くなるのだ。雪の降る夜、ブランコに乗りながら揺れている背中は、まさに掲句のようだった。明日が明日くることは絶対ではない。何かの事故や事件、あるいは災害によって明日が奪われる可能性だってある。「明日」はとても不確実な未来だ。漕いでも前には進まないブランコ。不確実な明日。「あした」と「あす」の読みの違いも興味深く、そこにゴンドラの唄の歌詞を重ねて読んだりもした。
夕暮れのカップ適温のおしゃべり
斉尾くにこ
「夕暮れのカップ」の設定がホッとした空間を演出している。慌ただしい時間と時間の合間の、ひと息つける時間帯だ。心安い人との、熱すぎず冷たすぎずのほどほどの会話の心地よさは、何ものにも代えが得たいひと時となっている。永遠には続かないからこそのこのひと時を、だからこそ慈しむように過ごせるのは、きっとひと山もふた山も越してきたからだろう。人生の生活の断片を垣間見るようだった。
産んだかもしれないこんな毛むくじゃら
鈴木雀
掲句の「毛むくじゃら」は、読者それぞれに思いうかぶ対象があると思う。犬やネコなどのペットとして飼われている小動物を愛玩動物とも言うが、飼い主にとってはそれだけは済まない。「産んだかもしれない」としれないと思うほど愛しい存在なのだ。それは決して作者だけの大げさな感覚ではない。「生む」ではなく「産む」と言う痛みと体温の伴った生々しい言葉...「こんな毛むくじゃら」の最上級の賛辞に、ネコをこよなく愛する者として涙が出そうになった。

